興津坐漁荘 建築探訪

時は大正。温暖な気候と風光明媚な興津を気に入り、ある人物が別荘を建てた。
京都から職人を招き大工の指導にあてたという建物は、興津に来たらぜひ足を運びたい名所の一つ。

2階南の窓からは、かすかに羽衣の松、日本平、伊豆半島を望む。当時は目の前を遮るものがなかったため、羽衣の松を借景に建てたと考えられる。

「坐して釣りが楽しめる余生を送れたなら」。そんな思いが込められた〝坐漁荘(ざぎょそう)〟という名の別荘が、東海道沿いにある。建てたのは、明治から昭和にかけて政治家として活躍した西園寺公望(さいおんじきんもち)公。「老後を穏やかに過ごそうと、大正8(1919)年に建てたのですが、実際には最後の元老として重要人物だったため要人が頻繁に出入りし、釣りどころではなかったようです」。そう教えてくれたのは、興津坐漁荘観光ボランティアガイドの伊吹重雄さん。「興津を選んだ理由は、何より温暖な気候が気に入ったから。91歳のとき、ここで最期を迎えました」
現在見学できる坐漁荘は、平成16(2004)年に建てられたもの。元の別荘は、昭和45(1970)年に明治村に移築。そして昨年、重要文化財に指定された。ここはというと静岡市が2004年、建材をはじめ意匠、庭の植樹まで忠実に復元し、NPO法人AYUドリームが管理している。工夫や趣向を凝らした建物は、西園寺公の暮らしぶりがうかがえ、歴史好きはもとより建築家も多く訪れるそう。では、そんな坐漁荘のほんの一部を覗いてみよう。

坐漁荘拝見

①客用玄関の上がり框には数寄屋建築に欠かせない、なぐり加工が施されている。②1階居間の欄間には桐材を使い、桐の花が彫られている。 ③83歳の頃、坐漁荘で撮影されたと思われる西園寺公望公。 ④伊豆石を床材に使った湯殿には、浴槽脇に緊急呼び出しボタンが設置されている。 ⑤広々と使いやすそうな台所だが、ここで料理をすることはなく、常に料理屋や旅館から食事を運んでいた。というのも防犯上、包丁の使用を禁じていたから。ほか、2階の鴬張りの廊下などセキュリティ対策が随所に見られる。 ⑥1階広縁から洋間に通じる戸の取っ手部分には希少な黒柿を使用。 ⑦女中室に3台設置された黒電話は、宮内庁や政府関係者へ繋ぐホットラインだった。 ⑧化粧室の床は撥水性の高い琉球畳。湯殿から化粧室へ上がる床の削り込みは、滑り止め効果がある。