初練習とは思えない上達の良さ。

祭本番は幣殿で舞を披露する。

神様へ捧げる舞

8月に入ったばかりの強い日差しが照りつける昼下がり、地元の小学5、6年生の女の子たちが岩城神社に集まってきた。秋の例祭で神様に奉納する浦安の舞を舞う子供たちだ。この日は第一回の練習日で、近隣の岩田神社の例祭で舞う子供たちと合同で行われた。「お母さんも子供の頃にやっていて、舞姫さんの姿がかっこよくて参加しました」と、ある女の子。手伝いに来ていた親御さんは、「私も子供の時に舞姫をやりました。本物の巫女さんと同じように着付けてもらって舞えるのは一生に一度のことだから、良い経験をしたと思います」。舞姫をできるのは、基本は小学6年生の女の子に限られている。舞姫をやりたい子供たちが多くて抽選だった時代から、今は人数を集めるのがやっとの状態。神主さんの話で、一説によると「まつり」とは定めた日に定めた場所で神様と人が待ち合わせをする事なのだという。例祭には、神様への日々の感謝と報告の意味がある。この地を守り続けてきた神様との待ち合わせの日に、氏子からの報告が絶えぬよう、続いて行ってほしい行事である。今年の例祭は、10月9日に行われる。

浦安の舞(昭和天皇御製)

天地の神にぞ祈る 朝凪の海のごとくに 波たたぬ世を

小さいけれど細工がしっかりと施されている。

とある仏像の伝説

正泉寺に祀られた小さくも凛々しい、その仏像は不動明王。炎を纏い、剣を手に、険しい視線で人々の甘えた心を律している。この仏像には謂れがある。
「それは天明年間(1781~88)のこと。この地のある豪族の庭で翡翠(ヒスイ)という鳥(カワセミ)が池の中から小さい仏像をくわえ出し、岩の上にとまった。過って池に落としたが、再び池の中から見つけて拾い上げ、岩の上に置いて去った。庭の主人は不思議なことだと思いこれを光正寺に納めると、ある日また翡翠が飛んできて仏殿の花瓶にしばらくとまっていたそうな。」
明治時代の廃仏毀釈(ハイブツキシャク)により光正寺はなくなり、正泉寺に祀られるようになった。お寺が開いていれば、いつでも拝観することができる。また、正泉寺では毎月第4日曜日の朝6時より座禅・読経・聞法の会が開かれているので、そちらも合わせて訪れてみたい。

江戸時代の染飯のレプリカ

瀬戸の染飯(ソメイイ)

江戸時代、東海道に面した現在の藤枝市上青島のエリアは藤枝宿と島田宿の狭間の地で、旅人たちの立場(タテバ)として賑わっていた。いわゆる休憩所である。そこでの名物こそが、瀬戸の染飯だ。もち米を蒸した強飯(コワイイ)をクチナシの実で黄色く染めてすり潰し、小判型などに薄く伸ばしたら、乾燥させて完成。クチナシは、「山梔子(サンシシ)」と呼ばれる漢方薬で、消炎、解熱、鎮痛、利尿などの効果があるとされ、旅人の健康をサポートする絶好の道中食だったそう。かの有名な俳人小林一茶も西国行脚の道中、「染飯や 我々しきが青柏」と詠んでいる。