昭和28年(1953)お正月、静岡駅から見た紺屋町と御幸町

紺屋町の誕生

静岡駅北口を出て目の前に位置するのが紺屋町。静岡の玄関口として、多くの人を迎え入れている町だ。紺屋町が生まれたのは、江戸時代のこと。紺屋(染職人)が多かったことから、徳川家康がつくった96ケ町の一つとしてこの名が付けられたそう。商店街らしきものが形成され始めたのが、明治22年(1889)。東海道線の開通にともない、伝馬町の旧東海道から旅館や運送屋、土産物屋が移転してきたことがきっかけだ。

戦後の商店街の復活

戦争によって一面焼け野原になったものの、徐々にバラックや商店が並び、昭和25年(1950)、駅前のシンボルとなる富士山ネオンが落成。「共同組合静岡駅前通り繁栄会」が設立され、3年後にはアーケードができ商店街の活気が戻ってきた。紺屋町の3つのブロックが県下唯一の地下街付き鉄筋コンクリートビルを完成させたのが、昭和45年(1970)。同時に名称を「静岡ゴールデン街」に改め賑わいはさらに増した。平成元年(1989)、地下街の大規模な改修工事が行われることに。このとき、地上へと続く階段が防災上、道路に重なる位置になってしまうため、地上は蛇行道路になった。現在も活動を続ける「静岡紺屋町名店街」が誕生したのは、その2年後のこと。

近年・今後の紺屋町

平成19年春、静岡パルコ開店によって若者の足がぐっと向くようになった。さらに平成22年の春には、東海軒や日興會館があった街区に地上25階の複合ビル葵タワーが誕生。静岡市美術館や戸田書店静岡本店などが入居することで、文化的な流れが舞い込んだ。そして、来年平成30年春、30年ぶりとなる道路改修が始まるそう。50年間お世話になった街路灯(すずらん灯)が新しくなり、現在土日祝の13時~18時のみ開放される歩行者天国を、改修後は平日へ拡大することを目指している(静岡パルコや葵タワーに面した2街区)。静岡の北玄関として、より歩きやすい町となることを期待しよう。

御幸町の誕生

紺屋町と同じく、静岡の北玄関となる御幸町。町名が生まれる以前、昭和2年(1927)に幅員24・5mの大通りが開通。昭和5年、昭和天皇がご視察のために行幸されたことから、その大通りは御幸通りと名付けられた。そして昭和20年(1945)、御幸通りに接する町を一括して御幸町と称するようになった。ちなみに当時、町内で最も多かった業種は旅館業。駅前ということもあり、その数約12軒。その後、多くが大企業に土地を買収され移転や廃業となり、最期まで営業していたのが静香。昭和50年代まで続いていたそうだ。

戦後の復興とミス静岡

御幸町のシンボル的建物といえば、今年創業85周年を迎えた松坂屋静岡店だ。それより古参というと、昭和5年(1930)に開店した松乃鮨(P12参照)。今回、三代目となる植田聞滋(きくじ)さんに御幸町の話をうかがった。昭和15年(1940)の大火に続き、5年後には空襲で再度全焼に見舞われた御幸町。そんな不遇続きの中、昭和21年(1946)、第一回ミス静岡がなんと御幸町から誕生!松坂屋静岡店と田中屋(現静岡伊勢丹)に貼り出された候補者の顔写真の中から市民投票によって選ばれたのは、清水初枝さん(旧姓藤浪)。化粧品のサンプルが賞品だったというのがなんとも微笑ましい。

駅前に地下道出現!

昭和20年代後半、当時は歩行者が静岡駅から御幸町へ足を運ぶには、車が行き交う国道を横断していた。その後みるみる交通量が増え、この横断によって交通渋滞や事故を招くことに。そこで昭和42年(1967)、駅前に第一号の地下道が完成。14年後に駅前広場(現タクシー乗り場付近)と駅前地下道を結ぶ地下道、翌年に駅前地下道から紺屋町ゴールデン地下街を結ぶ地下道が造られ現在の様相になった。当時はバリアフリーという考えがなかったため、静岡駅北口を出てすぐ地下道というアクセスラインが出来上がったのだ。昔の面影を感じながら、御幸町散策してみては。