時代を見つめてきた安倍街道

広々と整備された道路、見通しが良い安倍街道はそのまま「オクシズ」へと続き、晴天の日のツーリングやドライブはとても清々しい。実はこの街道の歴史は古く、その変化も著しい。江戸時代には安倍奥から産出される金や材木を運ぶための重要な流通経路としての役割を果たし、大正から昭和初期にかけては、安倍鉄道と呼ばれる軽便鉄道が走っていたこともあった。そんな安倍街道で生まれた物語の一部を紹介しよう。

曹洞宗・宝寿院の本堂

勝海舟と門屋

明治維新後も新政府からの仕官の誘いを断り、旧幕臣のために力を尽くした勝海舟も安倍街道を頻繁に往来した1人だろう。街道をまたぐ新東名の高架を北に抜けると、門屋という地区がある。慶応3年(1867)、大政奉還の後、静岡で隠居生活を送ることになった徳川慶喜についてやって来た勝海舟は、旧幕臣たちの世話や新政府との交渉に奔走する日々の中で、美しい梅の木が生い茂るこの門屋に心を寄せたという。村の名主白鳥惣左衛門という人物と意気投合した海舟は、この地に病気がちの母・信子のため、惣左衛門から土地を分けてもらい家を建てた。信子は入居する前に亡くなり住むことはなかったが、海舟はここを好み、秘かに要人と会談したり、村人たちとの交流を楽しんだりすることもあったとか。家には炊事場がなかったため、海舟が訪れるたびに、惣左衛門の家から食事を届けたという。現在、海舟が通った家は「海舟庵」として同所の宝寿院境内にあり、客殿として保存されている。宝寿院・東堂は、海舟と惣左衛門の人柄を「人品卑しからざる人だった」と語る。きっと気兼ねのない交流が成されていたことだろう。

記念碑と鉄舟会の村山さん

山岡鉄舟と井宮

江戸無血開城の影の立役者としても有名な山岡鉄舟は明治2年(1869)、静岡藩の権大参事(副知事相当)として井宮町に移り住んだ。静岡での鉄舟の大きな業績の1つが、失業した武士たちの救済に尽力したことだ。鉄舟の剣術修行時代からの盟友で、後に初代の静岡県知事を務めた関口隆吉の提案もあり目を付けたのが牧之原の茶園の開拓だった。牧之原開墾の功績者で有名な旧幕臣中條景昭も鉄舟のすすめで牧之原の地に入植したといわれている。6000ヘクタールにも及ぶ牧之原の大茶園は、今でも県内を代表する茶の名所だ。ところで、静岡・山岡鉄舟会の村山さんに鉄舟が大の酒飲みだったというエピソードを聞いた。血気盛んな若い衆を集めて酒を振る舞うときは、彼らが酔っ払って外で暴れ出したりしないようにと、ふんどし一丁にして飲ませていたとか。人のためにお金を使うことを厭わなかったが、決して裕福でもなかったそうだ。静岡に住んだのは3年半ほどであったが、それでも鉄舟は静岡に大きな影響を与えた。