夜の梶原山公園

鎌倉幕府の名将・梶原景時の最期の地

― 梶原山公園

およそ800年前、当時「夕日無山」と呼ばれていたこの場所で一人の武将とその一党が最期を遂げた。その武将の名は梶原景時。この地が梶原山と呼ばれるようになったのは、彼らの名を取ってのことだという。梶原景時は、源頼朝の命の恩人であり、あの壇ノ浦の合戦でも活躍。鎌倉幕府が開かれるのを支えた武将の一人だったようだが、頼朝亡き後は他の家臣と上手くいかず鎌倉を追われることに。西へ向かった景時一行が最期の戦いを繰り広げたのが、現在の静岡市清水区からここ葵区瀬名あたりだったようだ。刃を交え、時に逃げ、なんとか活路を見出そうとしたが、武勇の誉れ高かった三男・影茂(かげもち)が討ち取られると、もはやこれまでと覚悟を決めた景時。追っ手の目をくらますため馬に後ろ向きにまたがって梶原山に登り、残る息子たち、家来ともども自害して果てた。現在、公園として整備されるその地には、「梶原景時終焉之地」という石碑が残っている。

現在は、夜景の名所に。

瀬名・鳥坂にまたがる梶原山公園からは、視界を遮られることなく静岡市内や駿河湾、伊豆半島までを一望できる。明るいうちに見られる景色の素晴らしさも去ることながら、昨年には日本各地における後世に残すべき夜景として「日本夜景遺産」に登録された。新たな観光スポットとしても注目したい場所だ。

瀬名と瀬名氏

― 光鏡院

戦国時代の終わり頃、今川氏の領地だった瀬名。その瀬名に、幼くして父を亡くした今川氏親の後見人として親戚の今川陸奥守一秀が移り住み、「瀬名氏」を名乗ったという。また一秀が長享2年(1488)に建てたのが「清涼山光鏡院」。自身もそこに葬られ、寺には250回忌と500回忌の際に建てられた供養塔がある。

瀬名姫

天文11年(1542)瀬名館で女の子が誕生。「瀬名姫」と呼ばれ、後に徳川家康の正室となる。岡崎城に移り住むと、城の北側の築山に造られた御殿を与えられ「築山御前」と呼ばれるように。しかし、その実態は〝幽閉だったのでは〟という新説も浮上しているのだとか。また、葬られたのは浜松の西来院とされている。

伝説「沼の婆さん」

― 大安寺

南沼上の大安寺の本堂に、御神体として「沼の婆さん」の像が祀られている。彼女の名は「秋野」と言い、カッパによって沼に引きずり込まれてしまった孫娘の仇を打つために龍となったという伝説が残っているのだ。7年に一度、同じく南沼上の諏訪神社で沼の婆さんのお祭りが行なわれ、その際この御神体も神社に運ばれ、祀られるそうだ。大安寺にはそのほか毘沙門天が祀られていたり、本物の狐の御神体が祀られている稲荷神社があるので、あわせてお参りしてみては。