初倉の名士

幕末に坂本龍馬の暗殺に関わり、明治には地域発展に貢献した今井信郎をクローズアップ。

ひっそり佇む今井信郎屋敷跡地 島田市阪本(島田市阪本2499-2付近にこの先300mの案内板あり)

江戸幕府を倒すきっかけを作った坂本龍馬は1867年、京都市内の近江屋で何者かに斬り殺された。首謀者や実行犯は誰なのか、今も様々な憶測が飛び交う中で、実行犯の一人として挙げられるのが「京都見廻組(きょうとみまわりぐみ)」の隊士だった今井信郎だ。初倉はその今井が移住し、亡くなるまで住み続けた場所でもある。

今井信郎の生涯

今井は江戸に生まれ18歳で剣術家の榊原鍵吉(さかきばらけんきち)の門に入り、20歳にして免許皆伝。片手持ちの独自剣法を編出す。1867年に京都見廻組を拝命し近江屋事件に関わることとなる。その後は旧幕府軍として戊辰戦争を戦い抜き、敗戦後、捕らえられ禁固刑になるも恩赦を受けた。そして、牧之原茶園の開拓を指揮した中條景昭を慕い1878年に初倉へ移住し、農業指導者の道を歩み始める。農業の促進と安定に基盤を置き、県庁に農業政策の意見書を出したり、新しい農業技術を学んでは地元で広めたり、精力的に活動した。また、県立榛原高校の前身となる「堰南(えんなん)学校」の創立にも携わったとされるほか、農協の前身の農事会長や旧初倉村の4代目村長も務めるなど、亡くなるまでの40年間、地域の産業、教育、文化の発展に尽力した。

今井屋敷とまほろばの会

阪本の色尾西集落には、鶴ヶ谷という沢があり牧之原大地に降った雨の多くが流れ込む。その一つ、清水沢の一番奥まった渓谷の突き当たりに今井は住んでいた。現在は、今井信郎屋敷跡地となっていて、胸像や記念碑などが建つ。集落から離れており、住みやすいといえる場所ではないが、その場所を管理、整備しているNPO法人「初倉まほろばの会」の大塚靖郎さんに話を聞くと「坂本龍馬を斬った男であるため、常に刺客を気にして生活しなくてはならず、それ故にこのような場所に住んでいたのではないか」ということだった。初倉まほろばの会は、荒れていた屋敷跡の復元を願い立ち上げられた「初栄会」を引き継ぐ形で2016年に結成。この先何世代にもわたって管理されていくことを目標に、周辺の散策路の整備はもちろんのこと、小・中学校で定期的に勉強会を開くなど地元の名士を次世代に語り継ぐ活動をしている。島田市の郷土史家で、今井の生涯をまとめた「白雲の魁」を執筆した塚本昭一さんは「今井の人生は明治維新を挟んで大きく反転しており興味深い。武士道を貫きながらも、維新後は地域人として活躍した人柄を多くの人に知ってもらいたい」と話す。新茶の季節、蓬萊橋から牧之原大地の広大なお茶畑を通り、初倉の近代化のグランドデザインを作った人を訪ねてみてはいかがだろうか。