静岡茶発祥の地

足久保と切っても切れない関係にあるのが静岡茶と鎌倉時代の禅僧、聖一国師(1202~1280)の存在。聖一国師は足久保の隣の山に位置する栃沢に生まれ、後に京都の東福寺を開山した高僧で、日本の歴史上でも有名な人物だ。そして、彼こそが静岡にお茶を伝えた第一人者である。そもそも、日本人とお茶との出合いは鎌倉時代。1191年に中国から帰国した栄西という僧侶が、臨済宗とともにお茶の栽培や製茶方法、飲み方を伝えたのが最初と考えられている。それから約50年後、同様に中国へ留学した聖一国師が故郷である静岡の地にお茶の種を持ち帰った。中国から栃沢への帰路の途中でその種を蒔いたのが、紛れもない、足久保なのである。聖一国師の判断は正しく、足久保はお茶の生育に適した土地で、今日に至るまでお茶の栽培が続いてきた。時を経て、聖一国師のお茶は安倍川とその支流藁科川流域に広まり、県内で最も歴史の古い「静岡本山茶」として親しまれている。安倍奥の川霧のかかる山の斜面で栽培されるお茶は、平野部のお茶と比べて葉肉が柔らかく鮮やかな緑が特徴で、口当たりが優しく、爽やかな香りを楽しめる。ちなみに、聖一国師が通ったとされる足久保と栃沢を結ぶ古道は「ティーロード」と呼ばれ、標高850メートルの釜石峠を越える道のりはトレッキングコースとして整備されている。静岡茶の始まりの物語に思いを馳せながら、ぜひ訪れてみては。

狩野橋

安倍川を隔てて隣り合う葵区秋山町と与左衛門新田を結ぶ橋が狩野橋。郊外と市街地を行き交う人々を支えるのに欠かせない橋の1つである。取材中、興味深い1枚の写真と出合った。木造橋とコンクリート製の橋が並列して写っているものだ。そう、これは新旧の狩野橋。旧狩野橋は木造で、昭和26年8月に、橋長672メートル、幅員3.6メートルの規模で誕生。木造がゆえに豪雨の度によく流され、補修工事も頻繁にあったという。水害対策、交通量の増大や経済開発などの様々な理由により、昭和41年に新しい橋に引き継がれた。写真を見せてくれた「理容きくた」の店主によると、賃取橋といって通行料をとっていた時期もあるそう。近隣の人々には木造のころの狩野橋の思い出が今でも息づいている。

幅8m、高さ4.5mもある「狐石」。

狐石の謂れ

足久保太鼓の演奏曲の中に、狐が登場する「薫風天狐(くんぷうてんこ)」という曲がある。子狐たちがだんだんと妖狐へ変容する様子が太鼓の軽快なリズムや荒々しい音で表現されており、序盤で舞う子狐たちの可愛らしい姿も必見だ。この曲は、足久保にある「狐石(きつねいし)」の言い伝えが基になっている。それは「駿河路や はなたちばなも 茶のにほひ」という松尾芭蕉の句が刻まれた大きな天然石の句碑。昔、この石の下に狐が住んでいたことからその名が付けられたと伝わっている。確かに足久保の山間を散策していると、山に妖狐が宿っているような神々しさを感じるときがある。