第110回 島田大祭(帯まつり)

3年に一度開催される日本三奇祭の1つとして有名な『島田大祭(帯まつり)』の年がやってきた。祭りの道中で披露される、静岡県指定無形民俗文化財でもある『島田鹿島踊』や今年の見所を取材した。

大奴

大井神社と大祭

田大祭は1695年より始まったとされる大井神社の祭礼だ。大井神社の創建は不明だが、平安時代の書物『三代実録巻11』に『朝廷から従五位下(じゅごいげ)を賜る』と記録が残る古社である。江戸時代の『駿河記』などによると、ある時、大井川上流の川根本町大沢村から大雨によって運ばれてきた神様が、島田の下島(現在の御仮屋町)に祀られたという。その後、大井川の氾濫などにより何度かお社の場所が変わるが、1689年に現在の地へ移ったそうだ。その6年後に、以前鎮座されていた場所へと神輿に乗って里帰りを始めたのが大祭の神輿渡御の起源とされている。当初の供奉の行列は、神輿の他に代官をはじめ宿役人、一般の宿民、鹿島踊や大奴もこの時代から加わっていたという。
言い伝えによると昔島田の町では嫁を迎えると、晴れ着に装い大井神社にお参りした後、宿場内に帯を披露する風習があったそうだ。しかし、宿場の人口が多くなり挨拶回りが大変になったことや、女性が見世物のようで気の毒だという人々の気遣いが広まり、代わりの方法を考えた結果、大奴の木太刀に丸帯を下げて宿民に氏子になった報告と安産を祈願して町内に披露することになった。それまであまり飾り気がなかった大奴にも華が加わり、行列の名物となる。この木太刀に丸帯を下げる大奴の行列が珍しく、いつの頃からか『帯まつり』の名前も定着していったという。

楽人

鹿島踊

奴と合わせて大祭を特徴づけているものの一つに、静岡県の指定無形民俗文化財の『島田鹿島踊』がある。江戸時代中頃の1673年、島田宿に疫病が蔓延した。その時、春日神社の神霊を奉じて現在の大井神社の地に社を創建し、疫病の退散を願って踊りを奉納したのが始まりといわれている。1695年に現在の大井神社が島田宿の氏神として奉祀され、祭事として始まった神輿渡御に奉納するようになったそうだ。白い服に身を包んだ白丁(はくちょう)を先頭に、踊り子の三番叟(さんばそう)、お鏡、鼓、ささらが続き、その後に草笛、小太鼓、手平鉦(てびらがね)、大太鼓といった楽人が列をなす。往来を踊って進む鹿島踊の疫病退散・招福除災・五穀豊穣を祈願する所作は、優雅で荘厳。古代の神楽踊に似ているが、能や舞踊、田楽から出たものだという。楽人が奏でる五曲七節に合わせて、踊り子四役がそれぞれ別々の踊りを同時に踊りながら、後ろ向きに進む点が特徴で、全国的に見ても珍しいものだ。踊りの先頭を行くのは、烏帽子に狩衣の姿で扇と鈴を手に持つ三番叟。能や歌舞伎の役でもあり、その舞には豊作祈願や物事の始まり、幕開きの意味もあるという。お鏡は、黄色の衣服に鏡と鈴を持っており、疫病退散の意味があるそうだ。続く鼓とささらは紫の衣服に、それぞれ名前となっている道具を持ち踊る。鼓の音が福を招き、ささらが災厄を取り除く。前二役が2人ずつなのに対し、この二役は6人ずつで構成されている。
踊り子四役を担当するのは、主に小学4年生から中学2年生の子どもたちだ。元々は芸人が行っていたが、時代と共に徐々に主体が地域へと移り、現在では6丁目と南町の6街(がい)と呼ばれる地区の住民が中心となっている。9日は午前に大井神社で、夕方には合同本陣入りでも披露される。10日は、大井神社から以前鎮座されていた場所(御旅所)に、神様が里帰りする。大奴で有名な大名行列、神輿渡御行列の後に、鹿島踊、そして屋台が続く。「大井神社から御旅所までの道のりも良いが、御旅所に入り踊るところもオススメ」と鹿島踊を取り仕切る第6街祭典本部代表の池田さんは話す。「年々子どもが少なくなってきて大変な部分も多いが、300年以上続いてきた伝統を、この先100年、それ以上に続けていく祭りにしていくために、今踊る子どもたちにもいろいろなことを伝えていかなければならない」と言う。「人々が平和で穏やかに365日過ごせるように」そんな思いで先人たちは踊ってきたそうだ。「コロナ禍の今、疫病退散を願い始まった鹿島踊が踊られる意味は大きいので、ぜひ見に来てほしい」と言葉にも熱がこもる。改めて、踊りの意味も含めて見に行ってみてはいかがだろうか。